ローレンツが体罰を肯定したの?

『吾日三省我身』戸塚ヨットスクールについての記事
http://blog.livedoor.jp/hggfp735/archives/50575573.html
について。コメント欄に書いてたら長くなったのでこっちで書いてトラックバックする。

なんか、カルト宗教の臭いがするんですよねえ……。こう、科学の装いを身にまとっていながら実のところ自分の考えに都合が良いように解釈しちゃってるんじゃないのかなあ、と。
石原東京都知事がその脳幹論に触れたエッセイが、
http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no46.html
にあるんですが、そこに

ローレンツは『幼い時期になんらかの肉体的苦痛を味わうことのなかった子供は成長しても不幸な人間になりやすい』といっているが

という記述がある。出典はどこかな、と思ってちょっとネットを探してみると、
「東京都議会文教委員会速記録第十四号」
http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/bunkyo/d3030024.htm
において言及されている。長くなるけど該当部分を引用する。

〇くぼた委員 心がけていただきたい、それから、いろいろ考えて実行していただきたいという答弁でした。そういう意味では、やっぱり押しつけるものではないということは当然だと思うんですね。ただ、心配なのは、くどいようですけれども、例えば、こうして心の東京ルールということで並べると、それがひとり歩きをして、ルールなんだから守るべきだ、やるべきなんだというふうになりがちなわけです。私は、そうではないということを常に明らかにしていくべきだというふうに指摘をいたしておきます。
 いただいた資料について伺いたいと思うんです。
 資料の三ページ目には、児童虐待に関する相談状況をいただきました。この表を見ても、児童虐待が急増している、ふえているということはわかります。子どもたちを虐待や体罰から守ることは行政の緊急課題であり、既に種々の取り組みが始まっているところです。
 しかし、一昨日の本会議の我が党の代表質問の中で、知事は、ノーベル賞をもらった動物行動学者のコンラッドローレンツは、体罰も含めて、子どものころに我慢を強いられることである肉体的苦痛を遭わされることがなかった人間は非常に不幸なことになるということをいっておりますが、私は至言だと思いますと、体罰を容認する答弁をされました。
 そして、この心の東京革命の行動プランの中には、知事がさまざまなところで繰り返し引用しており、まさに答弁と同じ、幼いころ、肉体的な苦痛を味わったことのないような子どもは、成長して必ず不幸な人間になるというふうに、この中で引用されています。
 都の取り組みに、体罰を認めるような文章が書き込まれたとすれば、私は重大なことだと思うんです。そこで、この引用についての資料を出していただいたわけです。これがこの二枚目です。ここでは、コンラッドローレンツのこの言葉は、「文明化した人間の八つの大罪」という著作からの引用だということで、資料は示されているわけですけれども、この著作のどこにこの文章が出ているのか、説明してください。
村松心の東京革命推進担当部長 すべてを読み上げるということは、時間もかかりますので省略させていただきますが、「文明化した人間の八つの大罪」の記述には、幾つかこれに結びつく表記がございます。まず、汗をかき、疲れ切って、指を傷だらけにして、筋肉を痛めて、きわめがたい山の頂上に達したとき、すぐに、まだもっと大きな登はんの苦労と危険を克服せねばという期待を胸に抱けば、こうしたことはすべて、恐らく享楽ではなくて、考えられる限りの最大の喜びである、こういう表記がございます。さらに、今日、絶えず増大しつつある不快に対する不寛容性は、死のような倦怠を生み出すのであるといった内容が、幾つかほかにもございますが、著作の文章自体は、翻訳でもあり、非常に長く、わかりにくい表現になっております。今回の引用は、全体の趣旨を損なわないように要約をしたものでございます。
 また、体罰との関係でございますが、肉体的な苦痛は、体罰を意味するものではなく、何か幸せを得るには、それに対応した苦労や我慢も必要なのだという趣旨だと、こういうふうに考えてございます。

〇くぼた委員 今ご説明があったように、つまり、この著作の中のどこか一部を引用したんじゃなくて、しかも、今、わかりにくいという説明もされました。その全体としてわかりにくい本を、全体として引用したら、こういう意味になるんだというお答えなわけでしょう。なぜ、わかりにくい文章の本の全体を要約して、ここに載っているような引用になるのか、私は非常にこれは疑問なんですね。なぜそこまでして、これをまた載せなきゃいけないのかということを率直に感じます。
 そこで伺いますが、じゃ、だれがこれを要約したんですか。
村松心の東京革命推進担当部長 要約をだれがしたかということですけれども、これはプランの原案作成者であります事務局の方でさせていただきました。
〇くぼた委員 ローレンツの書いた著作を都の事務局の方が要約をして、こういうローレンツの言葉だとして載せるということは、そんなことでいいんですかね。私は、そんな根拠のはっきりしない文章を、都が出すパンフレットにわざわざ載せる必要があるのかというふうに思うんですよ。しかも、こうやってローレンツの言葉ということをつけて−−ノーベル賞をもらった方ですよね。そういっちゃなんだけれども、箔をつけたような形で載せる。結局、本当のところは、知事の繰り返しいわれているこの言葉を載せたということじゃないんですか。どうなんでしょうか。
村松心の東京革命推進担当部長 先ほども申し上げましたように、ローレンツの引用につきましては、あくまで子どもたちに、何か幸せを得るには、それに対応した我慢や苦労が必要なのだ、こういうふうな教えでございます。
 今回出しました行動プランの中の指針として、暑さ寒さに耐えさせようという行動指針がございます。これは、心の東京革命推進会議の議論の中から出てきたものでございまして、多くの人の賛同が得られているというふうに考えてございます。
 子どもの現状のところでも触れていますように、今の子どもたちは総じて耐性に乏しく、肉体的にも精神的にも、苦労して何かを求める気持ちが弱くなっているということから、先ほど申し上げたローレンツの引用をさせていただいたということでございます。
〇くぼた委員 暑さ寒さに耐えさせようということで、わざわざローレンツの言葉として引用する必要は全くないというふうに思うんですね。常識的に考えても、知事が繰り返しいっているこの言葉を載せたということだと思うんですね。だれが聞いたって、今のご答弁はそういうふうに思わざるを得ない。しかも、その内容は、事務局の方がローレンツの本全体を要約したということで、要約がローレンツの真意かどうか、これについてはさまざまな理解があるはずです。だから、先人からの一言としてローレンツの名を挙げるのがここでふさわしいのかどうか、これは非常に疑問に思いますね。
 そして、同時に、この文章は、知事が支援をする会の会長を務めている戸塚ヨットスクールの戸塚氏が、みずからの体罰の肯定論の論拠としている文章とも同じなわけです。それもいろんなところで、インターネットでも本でも新聞でも載っています。本会議場でも知事は、先ほどいったように、答弁するときに、体罰も含めてというふうに前置きをして、この文章を引用したわけです。こういう事実からして、体罰を容認するように誤解されるおそれのある、この引用部分は、都の発行物として不適当だというふうに思うんです。ですから、私は当然削除すべきだというふうに思いますが、いかがでしょうか。
村松心の東京革命推進担当部長 繰り返しになりますが、今の子どもたちは総じて耐性に乏しい、肉体的にも、精神的にも、苦労して何かを求める気持ちが弱くなっているということがプランの中でも指摘をされております。ローレンツの引用も、子どもたちに、何か幸せを得るためには、それに対応した我慢や苦労がどうしても必要なのだという内容になっておりまして、指針の考え方と基本的に一致しているということで掲載をさせたものでございまして、要約は妥当なものであって、削除する考えはございません。
〇くぼた委員 重大な認識だと思いますね。まず、ローレンツという名前を載せる必要があるかどうか、これは大きな疑問です。それから、この間のいろんな状況からして、体罰を容認するような、それにつながる引用文を載せる、これはやっぱり削除すべきだと私は思いますね。
 知事は、新聞紙上では、キレてしまう少年たちを眺めると、今さらに、かつて戸塚ヨットスクールで戸塚氏が立証した現代に必要な教育原理がいかに正しかったかわかる、こういうふうに称賛して、戸塚ヨットスクールを支援する会の入会案内で、知事は、そこで行われた教育のノウハウに学んで、教育荒廃の道を切り開いていくことがこの会の目的だというふうに述べているんです。
 ご承知のように、体罰は、学校教育法でも明確に禁止されています。知事が個人でそういう考えを持つのは自由です。しかし、知事が、体罰を肯定する特定の教育論を都民の中に持ち込むようなことは、絶対にあってはならないというふうに思います。
 こうした観点からも、また、常識ではちょっと考えられないような引用の仕方をした文章であることからしても、このままここに残しておくこと自体に、私は何か特別な意図を感じざるを得ません。この部分を削除すべきだというふうに改めて述べておきます。

村松心の東京革命推進担当部長が云ってるように体罰の肯定にはなってないでしょう。「何か幸せを得るには、それに対応した我慢や苦労が必要なのだ」というのはまだわからんではないけど、体罰とは関係ないと思う。